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研究科長の内川です
世の中で何かが起こった時に、自分がそれに対して何を思い、どういう仕方で考えを巡らせるか、そういった自分の思考法はいったい何が基になっていて、どこから来ているのだろうか、と考えることはありませんか?
人がどう思考するかはその人の性格で決まると言ってしまえば、確かにそうですが、それならばその人の性格はどのように決まるのでしょうか?DNAが半分で、育った環境が半分、と良くいわれます。自分のDNAや環境は両親に与えられたもの、その両親のDNAと環境はそのまた親から来たもの、その親のまた親の、と考えて行くと、結局、今の自分の考え方は決して自分だけのものではなく、そこには自分の国の過去の長い歴史が反映しています。自分の国のこれまでの文化の変遷が今の自分を作ったことになり、今の自分を知りたければ、どうしても国の歴史や文化を知ることが必要になります。
異文化を比較する研究で、何百人もからデータを取ると文化間の差がなかなか出てこないという話を聞きます。国や地域による文化の差は明らかなように見えますが、その差よりも個人間の差の方が大きいということらしいです。しかし、ひょっとすると文化というものは、本質は世界中でそうは違わないのかもしれません。私たち人間の思考法は意外と地域や時代に関わらず皆同じかも知れません。逆に、そういう見方で世界を見ると納得できる点も多いのではないでしょうか。
グローバルな人になるためには、外国へ行くことが一番良いと言われます。これは、外国に行って異なった歴史や習慣、そこで生活する人々を知ること、つまり、文化の違いを知ることが必要だということなのでしょう。しかし、世界の国や地域が本質では皆同じならば、異文化体験とは、“違い”を知ることではなく、“同じ”を発見することであり、外から自分の国を見て、自分の国も世界と同じだと実感することなのではないでしょうか。人がグローバルな考えを持つということは、実は自分の国をもっともっと深く知り、自分自身もっと良く知るということではないでしょうか。
最近、米国の二つの大学での卒業式に出席する機会がありました。二つの大学とも、東工大の卒業式と全く異なっているので大変驚きました。米国の大学の卒業式はある種の“お祭り”で、家族や親戚、知人が一緒になって盛大に卒業生を祝福します。
この写真のミシガン州立大学の卒業式では、バスケットボールの大きなスタジアムが会場として使われ、卒業生全員一人一人の名前が読み上げられ、一人一人が壇上で学長と握手をし、そして写真を撮られる一連の様子を、家族や親戚の人々は観客席から眺めます。学生も家族も大きな声を上げて祝福します。
一方、コロンビア大学の卒業式はキャンパス内の広い中庭で行われ、卒業生は学科毎に分かれて座り、自分たちの学科の紹介の時には精一杯声を張り上げます。家族や親戚はこの様子を後方から、あるいは大きなスクリーンで眺め喜びを分かち合います。
コロンビア大はニューヨークの街中にありますので、この日はその一角全体がコロンビア大生で埋め尽くされ、通りがかる人が“おめでとう”と声をかけてくれます。
日本の卒業式は“式典”であり、厳粛な雰囲気で挙行されます。出席者が声を上げることは滅多にありませんし、席を立ったりもしません。全員が姿勢を正しくして座っています。他の国はどうなのでしょうか?それぞれの国の特徴が現れていることでしょう。
このように、大学の卒業式ですら、その形は文化や習慣によって大きく違います。しかし、その本質、つまり、家族、先生、友人が卒業生を皆で祝うという意味はどこの国でも同じと感じました。
今回、米国の二つの大学の卒業式に出席して、世界の国の文化の“違い”を感じると当時に、“同じ”も発見しました。また、今まで当たり前に思っていた卒業式というものの形について、日本ではなぜこうなのか、どうしてこうなったのかなど、改めて、考えさせられました。